打ち明けた話
このところ根を詰めてフェミニスト研究、ポストコロニアル研究の学びをやっていたので、ブログを書く気力が湧かなかった。
でも、新たな出会いもいくつかあり、自分の人生の中でやるべきことの方向性が絞れてきたのは、少しワクワクしている。
世の中を「男か女か」ですっぱり二分した場合に、自分がどこに立つ者なのかやや不安定になる。(二分できないということは真理なのだけど、人間の思考はまだまだなかなかそこまで追いつかないね)
それでも、自分のセクシャリティがどうであろうと「女性」という性別を持って生まれてきたことは、この未だ父権制の社会でどう生きるべきか、どうしたってある程度は方向づけられてくる。
向かう先が見えてくると、心も体も少し元気になる。
マイノリティとして、とても引っかかること一つ。
シス・ヘテロ男性はわざわざ「実はわたし、女が好きなんだよね」とは告白しない。
シス・ヘテロ女性は「実はわたし、男が好きなんだよね」とは告白しない。
それはわざわざ告白するほどのことではない、当然のこととみんな思ってるから。
でもセクシャル・マイノリティの「性的指向」のカミングアウトはなぜ問題になるのか。
バッシングにあうかもしれない、近親者はどう思うか、とビクビクしながら「実は…」と打ち明けたりする。
そこからしてセクシャル・マイノリティがクィアな存在として社会で認識されていることをはっきり浮かび上がらせている。
実はこの間、一緒に活動している方2名と夕飯を食べる機会があり、その時思い切ってパン・セクシャルであることを話した。
急なことで困惑するかもしれないけど、そのことに対し差別や偏見を持たない人たちであると知っていたこと。そして、一緒にやっているNGOの活動が、女性たちはじめ社会のマイノリティたちの声を聴くことから始めるものであること。それらのことから、いつかは話したいと思っていたのだ。
わたしという人間がどういう背景を持っていて、だからこそこの活動にどのような思いで加わっているか、何を大切にしていきたいか…心底伝えるために、わたしは打ち明けることを選んだ。
口に出してみると、固くなってドキドキしながら打ち明けることでもなかったような解放感…
至って自然なことを話しているような気持ちになったのは、わたしがそのお二人との関係に恵まれているということなのか。
セクシャル・マイノリティという括りは、「シス・ヘテロが普通」という社会の概念が作り出す。そういう括りがなくなって、全ての人が、1人の人間であるわたし、として生きていける社会に早くならないかな。
「セクシャル・マイノリティ」がわざわざカミングアウトしなくても良い社会にならないかな。
いや、きっと私たちは、そうなるようにしていくだろう。
#カミングアウト#セクシャル・マイノリティ